東京地方裁判所 昭和55年(ワ)1089号 判決 1982年2月18日
原告
柏櫓トヨ
外四八名
右原告四九名訴訟代理人
山下豊二
同
児島惟富
同
戸田満弘
山下豊二訴訟復代理人
根岸隆
同
町井洋一
被告
国
右代表者法務大臣
坂田道太
右指定代理人
中野哲弘
同
石戸忠
主文
一 原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
第一 当事者の求めた判決
一 原告ら
1 被告は別紙第一目録A表B表①欄記載の各原告に対し、同②欄一記載の各金員及びこれに対する昭和五五年二月二九日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行の宣言
二 被告
1 主文同旨
2 担保を条件とする仮執行免脱宣言
第二 当事者の主張
一 原告の請求原因
1 船舶衝突事件の発生
(一) 機船第七金宝丸事件(以下「A事件」という。)
別紙第二目録(一)記載の機船第七金宝丸(以下「金宝丸」という。)は、昭和五三年一二月二三日午前四時五四分佐渡海峡角田岬灯台から北8.2海里の地点で、別紙第二目録(二)記載の機船しんえい丸(以下「しんえい丸」という。)と衝突して転覆し、間もなく沈没し、別紙第三目録A表①欄記載の乗組員総員八名が死亡した。金宝丸(船長柏櫓銀次郎)は、鋼製底引網漁船であるが、機船底引網漁業に従事するため、同日午前三時ころ新潟市万代島を発し、佐渡沖合漁場へ向け航行の途中であつた。しんえい丸(船長吉田十喜夫)は、油送船であるが、重油約二〇〇〇キロリットルを載せ、同月二〇日和歌山県下津を発し、関門海峡を経由して新潟へ向け航行の途中であつた。両船は、衝突地点付近に差し掛かつた際、ほとんど真向かいに行き会い衝突の虞がある態勢にあつたから、互いに左舷を対して通過するため急いで針路を右転すべき場合であつたのに、しんえい丸は、航海当直に当たつた無資格の甲板員が右の状況を船長に報告せず、また、見張りをおろそかにしたまま右転の措置をとらず、注意信号も発しなかつた。一方、金宝丸も、見張り不十分のためか、右転措置が遅れた。そのため、しんえい丸の船主部が、九〇度ばかり右転した金宝丸の左舷中央よりやや後部にほぼ直角に衝突した。本件衝突の主因はしんえい丸にあり、金宝丸にも一因があるが、その責任割合はしんえい丸八、金宝丸二である。
(二) 機船第一三有漁丸事件(以下「B事件」という。)
別紙第二目録(三)記載の機船第一三有漁丸(以下「有漁丸」という。)は、昭和五三年六月二一日午前六時一八分ころ岩手県首崎灯台からほぼ一二〇度四海里の地点で、別紙第二目録(四)記載の機船建昌(以下「建昌」という。)と衝突して転覆し、別紙第三目録B表①欄記載の乗組員一四名が死亡し、原告佐美勲、同荒関政房が負傷した。有漁丸(船長戸田幹雄)は、鋼製第二種漁船で、同年四月二日青森県八戸を出港し、マーシャル諸島付近の海域で二か月余りの操業を行い、まぐろ約五八トンを獲て同年六月一八日静岡県焼津に入港して水揚げし、同一九日同港を発し、八戸へ帰航の途中であつた。建昌は、空倉のまま同月二〇日北海道小樽を発し、台湾高雄に至る航行の途中であつた。有漁丸は、衝突地点付近に差し掛かつた際、霧のため視界が著しく制限された状況にあつたにもかかわらず、霧中信号を吹鳴せず、また、レーダーで前路に建昌の映像を捕捉していたのに安全な速度に減ぜず、全速力のまま進行した。また、建昌も、霧中信号を吹鳴せず、レーダーで左舷前方に有漁丸の映像を認め、既に著しく接近することを避けられない状況となつていた際、互いに他の船舶の視野の内にある船舶の航法の適用がある場合と誤断し、有漁丸が左舷側に存在していたので、「一九七二年の海上における衝突の予防のための国際規則に関する条約(昭和五二年条約第二号)」一五条及び一七条(a)(1)項の規定に従えばよいと考え、機関の運転を止めないまま針路速力を保持して進行し、避航動作をとらなかつた。そのため、建昌が衝突の危険を感じこれをかわそうとして左舵一杯を命じるとともに機関を停止し、注意を喚起するつもりで汽笛短音五回を吹鳴した時は既に遅く、建昌の船首が有漁丸の右舷側後部に前方から約五五度の角度で衝突した。両船の責任割合は、建昌六・五、有漁丸三・五である。
2 損害
(一) A事件関係
(1) 逸失利益
本件衝突事件により、別紙第三目録A表①欄記載の金宝丸乗組員八名全員が死亡したが、その逸失利益は、同②ないし⑧欄記載の項目に従つて計算すると、同⑨欄記載のとおりとなる。これを右死亡乗組員の相続人である同⑩欄記載の原告らに同⑪欄記載の相続分に従つて配分すると、同⑬欄記載のとおりとなる。
(2) 慰謝料
原告らは、右のとおり死亡した乗組員の妻、子又は母であつて、最愛の夫、父又は子を失つた悲しみは大きく、精神的損害に対する慰謝料は少なくとも別紙第三目録A表⑭欄記載の金額を下らない。
(3) 私物流失損害
別紙第三目録A表①欄記載の死亡乗組員は、本件衝突事件当時金宝丸に同⑯欄記載の金額に相当する私物を所有していたが、これをすべて流失し、同額の損害を受けた。これを同⑩欄記載の相続人である原告らに同⑪欄記載の相続分に従つて配分すると、別紙第四目録A表②欄記載のとおりとなる。
(4) 葬儀費用
別紙第四目録A表原告欄中1、3、8、10、13、16番記載の原告らは、死亡した乗組員の葬儀のため同⑦欄記載の費用の出捐を余儀なくされた。
(5) 船主の損害
一億〇三九〇万三〇〇〇円
本件衝突事件により、金宝丸の船主柏櫓銀次郎が被つた損害は、次のとおりである。これを同人の相続人である原告柏櫓トヨ及び同柏櫓智子に前記相続分に従つて配分すると、別紙第四目録A表①欄記載のとおりとなる。
① 船体 三二九六万七〇〇〇円
② 機関 二〇一九万二〇〇〇円
③ 漁撈、電気、無線設備等
二二五五万七〇〇〇円
④ 漁具 八〇七万二三三五円
⑤ 燃料その他積込品
三九万四〇〇〇円
⑥ 捜索救助船参加船報酬
一一七〇万五〇〇〇円
⑦ 合同葬儀費用 一三五万五〇〇〇円
⑧ 休業損害 六六六万一〇〇〇円
(6) 損害賠償債権
以上の損害を船舶の所有者等の責任の制限に関する法律(昭和五〇年法律第九四号。以下「本法」という。)二条五号及び六号所定の「人の損害」と「物の損害」とに分類すると、前者は別紙第四目録A表⑧欄、後者は同③欄記載のとおりとなるところ、本件衝突事件の相手方しんえい丸の責任割合は前記のとおり八〇パーセントであるから、右各損害額に責任割合を乗じると、同④、⑨欄記載のとおりとなり、その合計は同⑪欄記載のとおりとなる。したがつて、原告らは、しんえい丸の船主に対し、同⑪欄記載の金額の損害賠償債権を有する(この損害賠償債権を別紙第五目録A表③欄に、うち人の損害に関する債権を同④欄に、うち物の損害に関する債権を同⑤欄に移記する。)。
(二) B事件関係
(1) 逸失利益
本件衝突事件により、別紙第三目録B表①欄記載の有漁丸乗組員一四名が死亡したが、その逸失利益は、同②ないし⑧欄記載の項目に従つて計算すると、同⑨欄記載のとおりとなる。これを右死亡乗組員の相続人である同⑩欄記載の原告らに同⑪欄記載の相続分に従つて配分すると、同⑬欄記載のとおりとなる。
(2) 慰謝料
原告ら(ただし、原告吉田石藏、同佐美勲及び同荒関政房を除く。)は、右のとおり死亡した乗組員の妻、子又は父、母であつて、最愛の夫、父又は子を失つた悲しみは大きく、精神的損害に対する慰謝料は少なくとも別紙第三目録B表⑭欄記載の金額を下らない。
(3) 負傷乗組員の損害
甲板員の原告佐美勲及び操機長の原告荒関政房は、本件衝突事件当時有漁丸に乗船し、上甲板前方で土産用のまぐろを解体中、衝突により海中に投げ出され、辛うじて救助されたが、原告佐美勲は脱水症により昭和五三年六月二一日から同月二三日まで、原告荒関政房は右肋骨多発骨折により同月二一日から同年七月一二日まで入院を余儀なくされた。右原告両名の休業損害及び慰謝料は、次のとおりである。
① 原告佐美勲 合計五万円
イ 休業損害 一万七〇〇〇円
ロ 慰謝料 三万三〇〇〇円
② 原告荒関政房合計三九万七〇〇〇円
イ 休業損害 一五万円
ロ 慰謝料 二四万七〇〇〇円
(4) 船主の損害
二億七五七七万六〇〇〇円
有漁丸は、本件衝突事件により右舷後方部船側外板に縦六メートル、横八メートルの損傷を被り、機関室、冷凍機室に破孔が生じ、衝突直後転覆した。当時有漁丸には、船長戸田幹雄以下一六名の船員が乗り組んでいたが、船首部甲板上にいて救助された原告佐美勲及び同荒関政房を除く一四名が行方不明となり、そのうち何名かは船内に取り残されている可能性があつた。そこで、船主の原告吉田石藏は、深田サルベージ株式会社に依頼して有漁丸を衝突現場付近の海域から転覆したままの状態で曳航し、昭和五三年六月二三日釜石港に到着した。釜石港で有漁丸を引き起しドックに上架することは、釜石漁連の反対等で不可能となつたので、転覆した状態で同年七月一日八戸港に回航し、同月三日吊り起してドックに上架した。こうして、有漁丸は、一三日間転覆、水没していた。衝突による損傷と長期にわたる水没のため、有漁丸は、船体、エンジン、各種航海計器等のすべてに修繕不能の状態となり、全損となつた。そして、船主の原告吉田石藏の被つた損害は、次のとおりである。
① 船体 八四六五万四〇〇〇円
② 機関 七〇五七万三〇〇〇円
③ 航海計器、属具
二三九八万六〇〇〇円
④ 漁具 六九四万八〇〇〇円
⑤ 燃料その他積込品 九六万円
⑥ 捜査救助費 二五七三万円
⑦ 合同葬儀費用 四〇二万二〇〇〇円
⑧ 遺体収容費、遺族ホテル代、通信費等雑費 二四二万八〇〇〇円
⑨ 休業損害 五六四七万五〇〇〇円
(5) 損害賠償債権
以上の損害を「人の損害」と「物の損害」に分類すると、前老は別紙第四目録B表⑧欄、後者は同③欄記載のとおりとなるところ、本件衝突事件の相手方建昌の責任割合は前記のとおり六五パーセントであるから、右各損害額に責任割合を乗じると、同⑨及び④欄記載のとおりとなり、その合計は同⑪欄記載のとおりとなる。したがつて、原告らは、建昌の船主に対し、同⑪欄記載の損害賠償債権を有する(この損害賠償債権を別紙第五目録B表③欄に、うち人の損害に関する債権を同④欄に、うち物の損害に関する債権を同⑤欄に移記する。)。
3 責任制限手続開始の申立て及び和解
(一) A事件関係
しんえい丸の船主である日新汽船株式会社(以下「日新汽船」という。)は、昭和五四年一月一二日松山地方裁判所今治支部に対し、本法一七条一項の規定に基づき、責任制限手続開始の申立てをした。本法は、船舶所有者(以下「船主」という。)等又は船長等は、航海に対して生じた損害(一部の損害は除く。)に基づく債権について、損害の発生が、船主等にあつては自己の故意又は過失によるものであるとき、船長等にあつては自己の故意によるものであるときを除き、その責任を本法の定める責任限度額に制限することができ、責任を制限しようとするときは、管轄地方裁判所に対し責任制限手続開始の申立てをすることができることを定めている。そして、右の責任限度額は、本件のように人の損害に関する債権と物の損害に関する債権が生じている場合にあつては、一単位(船舶の所有者等の制限に関する法律施行令一条により二三円と定められている。)の三一〇〇倍に債権を発生させた船舶の積量トン数を乗じて得た金額とし、この金額を一定の割合で人の損害に関する債権と物の損害に関する債権に配分するものとし、また、右の船主等又は船長等の責任の制限は、当該船舶ごとに、同一の事故から生じたこれらの者に対するすべての債権に及ぶものとしている。
このため、原告ら代理人弁護士山下豊二は、日新汽船代理人弁護士と連絡を取り、直ちにしんえい丸を実地見分し、同船乗組員及び海難救助に当たつた地区漁業協同組合員や海上保安庁担当官から事情聴取する等して衝突の原因を究明した。その結果、しんえい丸の船主に故意・過失がなく、船長にも故意がなく、他に責任制限を妨げる事情は存在せず、責任制限手続開始の要件をすべて充足していることが明白となつた。そして、このまま責任制限手続が開始されても、審理が長期化して解決が延引するだけで、責任制限額以上に損害が填補される余地のないことが明らかとなつた。一方、一家の支柱を失つた原告らは、現に生活に困窮しており、これ以上解決を遅延させることはできない実情にあつた。そこで、原告ら代理人は、やむなく同年六月一二日今治簡易裁判所において日新汽船との間で本法の定める責任限度額である総額六三九三万七五六二円(23×3100×896.74トン)の支払を受ける旨の即決和解をした。
(二) B事件関係
建昌の船主である大洋航業股〓有限公司(以下「大洋航業」という。)は、中華民国法人であつて日本国内には右船舶以外に財産を有していなかつたことから、原告ら代理人弁護士山下豊二は、昭和五三年六月二三日盛岡地方裁判所遠野支部に対し、本法九五条の船舶先取特権に基づいて建昌の競売申立てをしたところ、同日競売手続開始決定及び船舶監守保存命令が出たので、これに基づいて同船を差押えた。
これに対し、大洋航業は、同年七月二四日盛岡地方裁判所に対し、本法一七条一項の規定に基づき、責任制限手続開始の申立てをし、原告ら代理人に、建昌の差押え解除と引換えに三億円を同代理人に預託して示談交渉したい旨申し入れてきた。
そこで、原告ら代理人弁護土山下豊二は、建昌を実地見分し、双方の乗組員及び海難救助に当たつた地区漁業協同組合員や海上保安庁担当官から事情聴取する等あらゆる調査を遂げて衝突の原因を究明した。その結果、建昌の船主に故意、過失はなく、船長にも故意がなく、責任制限手続開始の要件をすべて充足していることが明らかになり、このまま責任制限手続が開始されると、審理の長期化を招来する等A事件と同様の事情があつたので、やむなく示談交渉に応ずることとし、昭和五四年六月二〇日大洋航業との間で本法の定める責任限度額である総額二億九六一六万五二二〇円(23円×3100×4153.7トン)の支払を受ける旨の示談をした。
(三) 以上のとおり、A、B両事件について、相手方船主により責任制限手続開始の申立てがなされたので、原告ら代理人は、あらゆる調査を遂げた結果、右申立てはいずれも責任制限手続開始の要件を充足しているものとの判断に達し、加えて、責任制限手続を進行させても原告が支払を受け得る金額が増加する余地は全くなく、原告らは既に生活に窮乏し一刻も早い解決を要望していた状況下にあつたので、やむなく本法の定める責任限度額で即決和解又は示談に応じたものである。原告らが、このような解決を強いられたのは、本法によつて原告らの損害賠償債権の行使が制限されていることにすべて起因する。
4 損失補償請求額
本法の規定する責任制限制度がなければ、原告らはしんえい丸又は建昌の船主に対し、別紙第五目録A表及びB表③欄記載の三億七〇八四万〇八〇〇円(A事件)、五億九九三五万九八〇〇円(B事件)の損害賠償債権を行使し、その支払を受けることが可能であつた(右船主らは、二〇億円以上又は一〇〇億円以上の船主責任保険に加入していた。)。しかるに、同制度のため、原告らは前記責任限度額六三九三万七五六二円(A事件)、二億九六一六万五二二〇円(B事件)の支払しか受けられなかつた。右責任限度額の各原告に対する配分は別紙第五目録A表及びB表の⑥ないし⑧欄記載のとおりである(右責任限度額の損害に関する債権と物の損害に関する債権に対する配当率の計算は別紙第六目録A表及びB表記載のとおりである。)。したがつて、原告らは、別紙第五目録A表及びB表の③欄記載の損害賠償債権額から同⑧欄記載の責任限度額配分額を差し引いた同⑪欄記載の額の支払を受けられず、同額の損失を被ることとなつた。右損失は、責任制限制度により原告らの被つた特別の犠牲であるから、原告らは、憲法二九条三項の規定に基づき、被告に対し、その補償を請求する。
なお、有漁丸の船主の原告吉田石藏は、前記2(二)(4)の総損害額二億七五七七万六〇〇〇円のうち、①ないし③の損害は漁船保険から支払を受けたので、残りの損害九六五六万三〇〇〇円の右総損害額に対する割合を別紙第五目録B表⑪欄記載の金額に乗じて得た金額のみを請求する。
5 損失補償請求の根拠
(一) 憲法二九条三項は、「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。」と規定している。
原告らは、本訴において、物損、逸失利益、慰謝料及び葬儀費用に係る損害賠償債権の行使を制限されたことによる損失の補償を請求するものであるが、物損に係る損害賠償債権のみならず、人の生命又は身体が害されたことによる逸失利益、慰謝料及び葬儀費用に係る損害賠償債権も「私有財産」に該当することは、多言を要しない。
そして、「公共のために用ひる」とは、特定の公益事業の用に供するために特定の財産権を強制的に取得したり、あるいは特定の公益事業の需要を満たすために特定の財産権に公法上の制限を加えることのみをいうのではなく、広く社会全般の福祉のための私有財産を取得又は制限することを意味し、私人間の権利調整のため財産権を制限することをも含むのである。本法は、航海に関して生じた所定の損害に基づく債権について、債権を発生させた船舶の船主等の責任を、一事故ごとに、当該船舶の積量トン数に応じて算出された一定の金額に制限することができるものとしているが、これは、海運業ないし保険業という特定の産業を保護育成するという国の積極的経済政策(公共の福祉)のため、私有財産たる損害賠償債権を制限するものである。したがつて、原告らが前記のとおり損害賠償債権の行使を制限されたのは、同債権を公共のため用いられたものというべきである。
(二) ところで、公共のためにする財産権の制限が社会生活上一般に受忍すべきものとされる限度を超え、特定人又は特定範囲の者に対し特別の財産上の犠牲を強いるものである場合には、憲法二九条三項によりこれに対し補償することを要するとされている。
(1) そして、公共の安全、秩序の保持とか、社会的共同生活の安全の確保というような消極的目的のための財産権の制限は、財産権に内在する社会的拘束の現れとして社会生活上一般に受忍すべきものであつて、補償を要しないとされているのに対し、産業、交通その他公益事業の発展とか、国土の総合利用、都市の開発発展というような積極的目的のための財産権の制限は、特別の犠牲として補償を要するとされている。本法は、営利事業である海運業ないし保険業の保護育成という積極的目的のため、損害賠償債権を制限するものであつて、右制限は、財産権の内在的制約ではなく、特別の犠牲であり、補償を要すべきものというべきである。
(2) また、本法は、損害賠償債権一般を制限するものではなく、航海に関して生じた損害賠償債権のみを制限するものであり、しかも航海に関し重大な損害を被るのは事実上小型船(主に漁船)の船主及び乗組員に限られるから、特定範囲の者の財産権を制限するものというべきである。
(3) 次に、財産権に対する侵害が財産権の本質的内容を侵すほどに強度なものであれば、社会生活上一般に受忍すべき限度を超え、特別の犠牲に当たるとされているが、本法のため、A事件の原告らは、生命身体の代償たる損害賠償債権の約八〇パーセント、漁船等の物に関する損害賠償債権の約九五パーセントを侵害され、B事件の原告らは、生命身体の代償たる損害賠償債権の約四〇パーセント、漁船等の物に関する損害賠償債権の約七六パーセントを侵害された。右侵害が財産権の本質を侵すほどに強度のものであることは、多言を要しないところである。
(4) 更に、憲法二九条三項の補償を、単に財産権保障の観点からのみとらえることは、もはや適当でなく、その財産権が生存権を実質的に支えるものとしての意味を持つている場合には、むしろ、生存権保障という観点から、その損失を補償すべきものというべきである。本法が侵害の対象とする財産権は、漁業者にとつては営業上不可欠な漁船の代償であり、生存権的権利の最たる生命身体の代償である。これを侵害されることによつて、夫、父、子供を奪われた原告らは、まさに生存そのものが脅かされているのである。営利企業である海運業のために、人の生存権が犠牲にされる根拠は断じてあり得ず、右侵害による損失は補償の対象とされるべきである。
6 結語
よつて、別紙第一目録A表B表①欄記載の原告らは、被告国に対し、同②欄記載の各金員及びこれに対する訴状送達の日の翌日である昭和五五年二月二九日から支払済みに至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1は不知。
2 同2は不知。
3 同3(一)のうち、日新汽船が松山地方裁判所今治支部に対し、昭和五四年一月一二日責任制限手続開始の申立てをしたこと、原告らが日新汽船との間で即決和解をしたことは認めるが、その余は不知。
同(二)のうち、B事件原告らが昭和五三年六月二三日盛岡地方裁判所遠野支部に対し、責任制限法九五条の船舶先取特権に基づいて建昌の競売申立てをしたところ、同日、競売手続開始決定及び船舶監守保存命令が出されたこと、大洋航業が同年七月二四日盛岡地方裁判所に対し、責任制限手続開始の申立てをしたこと、原告らが大洋航業との間で示談をしたことは認めるが、その余は不知。
同(三)は不知。
4 同4は争う。
5 同5は争う。
三 被告の主張
1 原告らに生じたとされる損失と本法の公布施行との間には直接の因果関係が存しない。
本法によれば、責任制限の効果は、責任制限手続開始の申立てによつて生じるのではなく、責任制限手続廃止を解除条件として責任制限手続開始決定の時に生じるのであるが、A事件については昭和五四年一月一二日松山地方裁判所今治支部に、B事件については昭和五三年七月二四日盛岡地方裁判所に、それぞれ相手方船舶の船主から責任制限手続開始の申立てがなされたものの、両事件とも開始決定がされないまま、原告らと相手方船舶の船主との間で即決和解又は示談が成立し、各申立ては取り下げられた。したがつて、本法が直接原告らの主張する損害賠償債権の行使について制限を加えたものとはいえないのであり、原告らの損失と本法の公布施行との間には直接の因果関係は存在しない。
2 本件は、憲法二九条三項にいう「用ひた」場合に該当しない。
(一) 憲法二九条は、一項において「財産権は、これを侵してはならない。」と規定し、私有財産権制度及び個々の国民が有する財産権の公権力からの不可侵の原則を定め、二項においてその例外の第一として「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。」と規定し、右財産権は無制限なものではなく、その内容、行使方法等については法律により権利内在的見地ないし政策的見地からする制約が加えられる旨を定め、三項において右例外の第二として、公用収用又は公用制限における損失補償制度の原則を定めているものであり、三項の「用ひる」とは、公用収用(特定の公益事業の用に供するためにする特定の財産権の強制的取得)又は公用制限(特定の公益事業の需要を満たすために特定の財産権に加えられる公法上の制限)を意味するところの強制的に財産を収用又は制限することをいうと解すべきである。
(二) 本法は、一九五七年ブラッセルにおいて成立した「海上航行船舶の所有者の責任の制限に関する国際条約」(以下「責任制限条約」という。)を批准するための国内法整備の一環として、昭和五〇年一二月二七日公布され、同条約が発効した昭和五一年九月一日から施行されるに至つたものであり、その内容とするところは、本法制定前の商法六九〇条以下が定める船主責任制限制度で従前から批判の多かつた委付主義(船主は原則として人的無限責任を負担するが、航海の終わりにおける海産すなわち船舶、運送賃などを債権者に委付して自己の責任を制限することができるとする主義)を改め、より合理的な金額(責任)主義(船主は、事故ごとに、債権を発生させた船舶の積量トン数に応じて算出された金額にその責任を制限することができるとする主義)によることとし、本法その他の法律による一定の要件が満たされている限り、船主等に対する航海に関して生じた損害賠償債権は、その原因が不法行為であると債務不履行であるとを問わず、船主等にあつては故意又は過失がある場合及び船長等にあつては故意がある場合を除き、本法九条以下に定める裁判所の責任制限手続により、その責任を一定の限度まで制限することができるというものである。
(三) 政府から国会において説明された本法の提案趣旨は、次のとおりである。
「現行商法は、船舶所有者が船舶による事故によつて損害賠償の責任を負う場合等には、船舶及び運送賃等を債権者に委付して損害賠償の責任を免れることができる、いわゆる委付主義を採用しております。
このように船舶所有者の責任を一定の限度に制限する制度は、その方法にそれぞれ異なるところがあるとはいえ、世界各国に共通する制度でありますが、わが国の委付主義の制度は、委付の対象となる船舶の破損の程度等偶然の事情によつて、損害のてん補される程度が著しく異なり、被害者保護の見地から合理的でないものとされ、現在わが国以外には、この委付主義をとる主要海運国はありません。
ところで、昭和三十二年に、船舶所有者の責任制限制度を国際的な金額主義に統一するための海上航行船舶の所有者の責任の制限に関する国際条約が成立し、昭和四十三年に発効しましたが、現在までに英、独、仏等二十六カ国がこの条約を批准しております。
そこで、この法律案は、この条約を批准することに伴い、船舶の所有者等の責任制限制度を金額主義に改め、これを実施するため、所要の立法措置を講じようとするものであります。
この法律案の要点を申し上げますと、第一に、船舶所有者、船舶賃借人及び傭船者は、故意または過失がないときに限り、事故について負うべき損害賠償の責任を、一事故ごとに、その船舶のトン数に応じた一定の金額に制限することができることといたしております。また、船長、海員その他船舶所有者等が使用する者も、故意がないときに限り、船舶所有者等と同様に、責任を制限することができることといたしております。
なお、船舶所有者等の使用する者の債権等、特に債権者を保護する必要のあるものについては、例外として、責任制限の効力が及ばないことといたしております。
第二に、責任の限度額は、責任を制限する債権が物の損害に関する債権のみである場合には、一金フランの千倍にその船舶のトン数を乗じた金額といたしておりますが、その他の場合には、一金フランの三千百倍にその船舶のトン数を乗じた金額とし、そのうち一金フランの二千百倍に船舶のトン数を乗じた金額は、人の損害に関する債権の弁済のみに充てられるものといたしております。
第三に、責任を制限される債権の弁済を確保するため、船舶所有者等が責任を制限するには、裁判所にその旨の申し立てをし、かつ、供託等によりその責任限度額に相当する基金を形成しなければならないこととし、また、責任制限手続が開始したときは、裁判上の手続によりその基金を各債権者に公平に分配することとし、これらの手続について詳細な規定を設けることにいたしております。
なお、最後に、タンカーによる油濁事故から発生した損害の賠償請求権については、別途今国会に提出しております油濁損害賠償保障法案によることとなりますので、本法案の規定は適用されないこととなります。
以上が船舶の所有者等の責任の制限に関する法律案の趣旨であります。」
(四) 要するに、本法は、特定の公益事業等のため特定の財産権に対してこれを強制的に取得するとか、又は公法上の制限等を加えるという要素は全くなく、単に、私人と私人との間の権利義務関係である損害賠償債権の責任の範囲に関し、一定の限度で特別の定めをしたにすぎず、実体法的には従前存した規定を合理化した程度のものであるから、憲法二九条三項の補償が問題となる財産権の強制的収用又は制限とはおよそ無縁である。
3 本件は、憲法二九条三項により補償することを要する「特別の犠牲」に該当しない。
(一) 公共のためにする財産権の制限は、それが特定人に対し、特別の財産上の犠牲を強いるものである場合には、これに対し補償することを要するが、財産権の持つ社会的公共的性質からして、それが社会生活上一般に受忍すべきものとされている限りにおいては、補償を要しない。本法の場合は、本法の存在により原告らが何らかの損失を被つたとしても、以下に述べる理由からして、その損失は原告らにおいて社会生活上一般に受忍すべきものであつて、被告においてその補償をする限りのものではない。
(二) まず、本法による責任制限制度には、次のような合理的理由がある。
(1) 海運業は、海上の輸送機関とし、低廉な運賃で大量の人員や物品を運送すべき公共性を有するが、一面企業の存立を危殆に陥らせるような巨大損害を惹起させる危険性を包蔵し、右損害を保険で補填するとしても、保険料の運賃への転嫁には自ずから限度があり、海運業を保護し、適正な運営と総合的発展を図ることは、公共の福祉を増進する上で不可欠である。
(2) 船主の船長及び乗組員に対する指揮監督は事実上困難であるのに、本法の制定に伴い改正された商法六九〇条は、民法七一五条の使用者責任を変更し、船主にある程度の無過失責任を認め責任を加重した。
(3) 船主の責任制限制度は、方法、態様に差異があるものの、古くから各国により是認され、我が国も従前委付主義を採用していたもので、国際的性格の強い海運業にあつて、我が国だけが責任制限制度を廃止することは事実上困難である。また、たとえ責任制限制度を廃止しても、船主は、一隻の船舶ごとに株式会社又は有限会社を設立することにより、責任制限の効果を事実上享受することが可能となる。
(三) 本法による責任制限は、厳格な要件の下に必要最小限度の制限をしているにすぎないもので、制限自体が著しく正義に反する内容のものではない。
すなわち、独自の規制が要求される油濁損害賠償保障法及び被害者保護の必要性が大きい原子力損害の賠償に関する法律が適用される債権については、本法が適用される余地はなく、責任制限をすることが公平の見地等から不適当と思われる内航船の旅客の死傷による損害に基づく債権(三条二項)、海難救助・共同海損に基づく債権(四条一号)、船長等の被用者が使用者たる船主等に対して有する債権(四条二号)は、制限の対象外とされており、以上に該当しない制限可能な債権でも、船主等に故意又は過失があるときは制限できない(三条一項但し書き)ものとされている。そして、責任制限の効果は、当然に生じるのではなく、船主等によつて責任制限手続開始の申立てがされ、裁判所が開始決定をして初めて生じるのであつて、船主等が右制限を欲しないときはその意思を尊重する建前になつている。
また、責任制限制度は、債務そのものを一定限度まで制限するのではなく、責任を制限するにすぎないものであり、責任限度額も責任制限条約三条の規定を受け、過去の実績等をも勘案して定められたものであり、不当に低額とはいえない。そして、制限手続が開始されると、制限債権者は、責任制限手続に参加することによつて船主等が供託した基金からその割合に応じて事実上優先的に弁済を受けることができるのである。
(四) 更に、本法と類似の法制として次のようなものがあり、それぞれ合理性をもつて機能している。
まず、破産法は、三六六条ノ二以下において免責制度を認め、破産者は破産手続による配当を除く債務全部について、裁判所の関与の下に責任を免れることができるとしている。最高裁判所昭和三六年一二月一三日大法廷決定(民集一五巻一一号二八〇三頁)は、右免責規定は公共の福祉のための憲法上許された必要かつ合理的な財産権の制限であり、憲法二九条各項に違反するものではない、と判示した。
次に、会社更生法は、二四一条等において、認可された更生計画に定められた債権等以外はすべて消滅するとしている。最高裁判所昭和四五年一二月一六日大法廷決定(民集二四巻一三号二〇九九頁)は、右規定は、公共の福祉のため憲法上許された必要かつ合理的な財産権の制限を定めたものであり、憲法二九条一項、二項に違反するものとはいえない、と判示した。
また、失火ノ責任ニ関スル法律は、木造家屋の多い我が国において天候や消防状況等の偶然的事情により損害が意外に拡大することがあること等の理由から、民法七〇九条による損害賠償責任の要件に変更を加え、失火者に重大な過失がある場合にのみその責任を認め、軽過失があるにすぎない場合にはその損害賠償債務自体が発生しないとし、債権者の負担のもとに債務者保護を図つている。
なお、航空運送につき、国際航空運送についてのある規則の統一に関する条約(昭和二八年八月一八日条約第一七号。いわゆるワルソー条約)二二条は、運送人の責任制限の規定を置いている。
(五) なお、最高裁判所昭和五五年一一月五日大法廷決定(民集三四巻六号七六五頁)は、本法第二章の規定は公共の福祉に適合する定めとして是認することができ、憲法二九条一項、二項に違反するものということはできない、としているから、その趣旨からして、同法三項に基づく補償の問題の生じる余地のないことは明らかである。
4 原告らに生じたとされる損失のうち、人的損害に関する部分は、憲法二九条三項にいう「私有財産」に該当しない。
原告らに生じたとされる損失のうち、原告ら自身又はその被相続人が死亡又は負傷したことによる逸失利益、慰謝料等の人的損害に関する部分は、憲法二九条三項にいう「私有財産」に該当しないこと、その文字上明らかであるから、そもそも原告らの本訴請求額のうち右部分については、憲法二九条三項の補償の問題とはなり得ない。
四 被告の主張3に対する原告らの反論
1 被告は、本法による責任制限制度は合理的な制度であると主張するが、従前の委付主義の方が格段に合理的な制度であつた。
すなわち、委付の対象の中心である船舶は、その価値が極めて大きく、特に近年は高額化の傾向が著しい。船価の高額化とともに、その船舶の損失に備えて船舶損害保険が普及し、また、責任保険も発達し、近年では、およそ他船に損傷を与える能力を有する程度の船舶で、船舶損害保険及び責任保険に加入していない船舶は全くない状況である。そして、委付主義の下での商法旧六九〇条の委付の対象となる船舶その他の海産には、これに代わるべき船舶損害保険金が含まれるとするのが通説判例であつた。また、商法旧六九〇条の委付によつて免責される債権は、商法旧八四二条九号により船舶先取特権の被担保権とされ、被害者は、船舶先取特権に基づく物上代位権によつて、船舶損害保険金から損害を優先的に取り立てることができた。したがつて、加害船舶が著しく破損し、あるいは沈没した場合であつても、被害者は、全損害につき保険金による賠償を受けることができた。このように、船舶の高額化と保険の普及のため、委付を実行する船主は皆無に等しく、被害者は、全損害の賠償を受けることができた。しかるに、本法の施行により、船主がいかに高額の保険に加入していても、被害者は、責任限度額をもつて賠償を打ち切られることになつたのである。
2 しかも、本法の責任限度額は、本法公布より一八年前の昭和三二年に責任制限条約で決定されたものを取り入れたもので、極めて低額である。アメリカ合衆国等は、同条約の責任限度額が低額のため同条約に加盟していない。そして、昭和三二年と本法公布の昭和五〇年とを比較すると、物価、給与水準、生命身体の侵害に対する損害賠償額等に格段の差違が存することは多言を要しないところであり、既に本法の国会審議の段階から責任制限条約の責任限度額の引上げが国際的にも検討されていたのである。すなわち、昭和五〇年一二月には、政府間海事協議機関第二八回法律委員会において、責任制限条約に代わるべきものとして「海事債権についての責任の制限に関する国際条約のための草案」が作成され、昭和五一年一一月ロンドンにおいて右草案を条約とするための全権外交会議が開催され、「海事債権についての責任の制限に関する条約」が採択され、昭和五四年一二月二一日には、ブラッセルにおいて、条約改正の議定書が作成されるに至つた。これは、計算単位をフランからSDR(特別引出権)に変更するにとどまらず、責任限度額を三倍以上に引き上げようとするものである。
そして、日本の場合、最も被害を受けやすいのは漁船であるが、漁船は貨物船に比較してトン当たりの船価が高く、また、船舶の大きさに比較して乗組員の数が多く、いつたん事故の場合は損害額が極めて大きくなり、数億円あるいは十数億円に達することも珍しくない。一方、日本国内において衝突事故を起こす最も平均的加害船は一〇〇〇トン以下の内航船舶であり、その責任限度額では右損害額を到底カバーできないのである。
3 本法は、責任制限条約の批准を契機として立法されたものであるが、日本国民相互間の権利義務及び日本国民と同条約の非締約国の国民との間の権利義務については、被告は、同条約に拘束されず、自由に立法できたのであり、右権利義務を責任制限制度の対象外とし、あるいは責任制限制度の対象とするにしても、独自の責任限度額を定めることが可能だつたのであり、それで条約違反の問題は生じなかつた。現に、前記の海事債権についての責任の制限に関する条約一五条三項は、他の締約国の国民の利益が全く含まれていない場合の債権についての責任制限制度については、国内法で自由に定め得る旨を規定し、右の自明の法理を確認している。しかるに、被告は、右の権利義務についても一律に本法の適用対象とし、不当に低額な責任限度額を設定してしまつた。本件において、A事件は、加害者被害者ともに日本国民であり、B事件は、被害者が日本国民で、加害者が責任制限条約の非締約国である中華民国の国民であり、両事件とも、本来、責任制限条約により加害者の責任が制限されるべき必然性は何ら存しない。それにもかかわらず、本法が不当にも本件のようなケースまで責任制限の対象としてしまつたため、原告らは、その権利を不当に制限されてしまつたのである。
4 漁船損害補償法に基づく漁船保険は、漁船の事故により自船又は他船に生じた損害等を保険の目的とし、政府が再保険者となる一種の政府管掌保険である。漁業者は、この漁船保険により、事故により漁船が沈没等した場合にも、速やかに次の船を購入又は新造することができた。しかし、本法が施行されるや、漁船保険の保険金も本法の責任限度額に制限され、事故により漁船が沈没等した場合も、速やかに次の船を購入又は新造できなくなるという事態になつた。そのため、全国の漁業者が本法を不当とする猛運動を展開し、漁船保険を所管する農林水産省(当時は水産庁)も、本法の不当性を認め、昭和五二年五月九日付け五二水漁第一八五九号をもつて、本法施行日の昭和五一年九月一日にさかのぼり、漁船保険に加入している漁船が互いに衝突した場合の衝突損害賠償金については、保険金額を限度として本法の責任限度額を超えて填補する旨を通達した。このように、本法の不当性については、被告の一機関である農林水産省もこれを認め、その実質上の適用除外を設けているのである。
5 被告は、海運業を保護するため、本法の責任制限制度が必要である旨主張するが、海運業が時に巨大損害を惹起させる危険性を包蔵しているにしても、海運業が負う損害賠償責任は、過去何十年もの間、責任保険で補填され、保険料は運賃収入を中心とする海運業の収入によつて賄われてきたのであり、それで何の不都合もなく、日本の海運業は世界的レベルに発展し、海運業は毎年膨大な利益を挙げてきたのである。そもそも、保険料は、海運業の総コストの一パーセント以下であり、保険金額によつてさほど異なるものではないから、本法が成立しても、船主は、従来と同じ額の保険に加入するであろうし、保険料も低くならない見通しである。したがつて、本法は海運業にはほとんど利益をもたらさないのであり、保険業だけが同じ保険料を徴しながら保険金の支払を制限でき、国民の犠牲の上に巨大な利益を得ることができるのである。「保険料の運賃への転嫁には自ずから限度がある」との被告の主張は、全く事実に反した観念論にすぎない。
6 次に、被告は、船主の責任加重をいうが、民法七一五条の使用者責任は、判例等の実務においては事実上無過失責任に近い形で運用されてきたのであつて、商法六九〇条は、右実務の取扱いを明文化したものにすぎず、形式的にはともかく、実質的には船主の責任を加重したものではない。その上、右規定と本法の施行とは、法律的に何らの関係もない。
7 更に、被告は、船主責任制限制度一般の必要性を論じているが、原告らは、本法の制度を問題としているのであるから、右一般論は無意味である。また、一隻の船舶ごとに会社を設立することは、本法施行前にも数限りなく行われていたし、それによつて特別の不都合はなかつた。何らかの不都合があれば会社法でその設立を制限すればよいのであり、船舶事故の被害者を犠牲にする必要は全くない。
8 また、被告は、本法は債務そのものを一定限度まで制限するのではなく、責任を制限するにすぎないのであり、船主が右制限を欲しないときはその意思を尊重する建前になつていると主張する。しかし、法律によつて責任を制限できるのにこれを利用せず、責任限度額を超えて賠償を行う私企業などあるはずがない。現に、本法の国会審議に参考人として出席した日本船主責任相互保険組合(いわゆるPI保険組合)の理事は、「本法が成立しても、加害者が妥当と考え責任限度額以上の支払をした場合には、PI保険組合としてはそれに見合う保険金を支払う」旨述べ、政府も、その旨の行政指導を行うと誓約したが、本法が施行されるや、PI保険組合は、直ちに保険約款を変更し、本法による責任限度額を保険給付の限度額とした。これが現実であり、被告主張の自然債務論は空理空論にすぎない。そして、被告は、本法の責任限度額は過去の実績等をも勘案して定められたもので不当に低額とはいえない旨主張するが、被告は過去の実績等の調査をしておらず、前叙のとおり右責任限度額は不当に低額であり、本法施行以来右責任限度額を大幅に上回る損害を発生させた事故は数百例にも達しているのである。
9 被告は、本法と類似の法制として、破産法、会社更生法及び失火ノ責任ニ関スル法律を挙げるが、これらの法律は、本法と立法の趣旨目的、背景、機能を全く異にするものである。確かに、最高裁判所は、破産法の免責、会社更生法の債務消滅を合憲と判断しているが、破産者の生存権をも否定するような権利行使は本来抑制されるべきであり、権利行使は利害関係人との調整の下に行われるべきこと(権利の内在的制約)、これらの制度は債権者にとつても利益な面があること、債務者の破産等により債権の価値が既に乏しくなつており、財産権の侵害が軽微であること等を理由としている。しかるに、原告らが本法により財産権を侵害されるのは、その権利行使が加害者の生存権的権利と衝突するからではなく、他の債権者との利害調整のためでもなく、権利としての価値が乏しいからでもなく、まして原告らにとつて利益な面があるからでもない。すべては、営利企業の利益のためである。破産法や会社更生法は、債務者が破産し、あるいは経済的窮境に陥つた場合において、債務者が全資産を裁判所にゆだねることを前提として、関係者の権利を相互調整する制度であるのに対し、本法は、債務者がごく一部の資産を裁判所にゆだねれば、その余の責任を免除する制度であり、この点一つをとらえても、両制度に類似性のないことが明らかである。また、ワルソー条約は、運送人の債務不履行責任のみを制限しており、本法のように不法行為責任まで制限するものではない。
10 なお、最高裁判所昭和五五年一一月五日大法廷決定は、特別抗告理由が本法は憲法二九条に違反すると主張したのに対し、本法は同条一項及び二項に違反するものではないと判断し、三項についての判断は慎重に避けている。本件請求は、本法の同条一項及び二項違反を主張するものではなく、本法が同条一項及び二項に違反しないことを前提として、同条三項の損失補償を請求するものであるから、右決定は何ら妨げとなるものではない。
11 以上のように、本法の責任制限制度は何ら合理性を有するものではなく、原告らがそれによる損失を受忍すべきいわれはない。
五 被告の再反論
1 原告らは、日本国民相互間の権利義務及び日本国民と非締約国の国民との権利義務については、いずれも責任制限条約の自由事項であるから、本法の適用を除外すべきであつたと主張する。
本法は、責任制限条約の発効をその前提としたものであり(本法附則一条)、また、同条約の批准は、商法旧六九〇条に定める委付主義をより合理的な金額責任主義に改めるという点と、海商法の国際的統一に参加するという点で、それぞれ大きな意義を有するものである。
なるほど、原告らの主張するように、国内船又は自国民相互の関係については、その性質上、国際条約は適用されず国内法が適用され、また、同条約七条後段によれば非締約国に対しては右条約による責任制限の利益を付与しないことができるとされていることから、A事件のような国内船同士の事故あるいはB事件のような国内船と非締約国船との事故については、いずれも本法においてその適用を除外する規定を設けたとしても、条約違反の問題は起こらないということはできよう。しかしながら、責任制限条約及び本法は、前述のように、委付主義を定めた国内法である商法旧六九〇条を金額責任主義に改正するということをその本質的内容の一つにしているのであるから、国力船同士の事故につきすべて本法の適用を除外する規定を設けるということになれば、同条約を批准する実益はほとんど失われてしまうといつてもよいのである。確かに、本法三条二項は、内航船の乗客についての損害を本法の適用除外としているが、内航船は専ら近海又は沿岸を航行するものであつて、トン数に比し多数の乗客を運送することが多く、特に近時フエリーボートによる運航が発達していることから、内航旅客船に事故が発生した場合、責任制限を許すことになると、一人当たりの損害賠償額が極めて低額になることが容易に予想されたのみならず、内航船は運送約款上責任限度額を設けることができるし、責任保険によつて損害を補填することもでき、しかも船主等はその乗船定員をあらかじめ知り得る立場にあつて、その付保額及び保険料額もある程度予想することができ、内航船主に酷になることはないとの判断から、特に設けられた規定にすぎないのである。国内船と非締約国船との事故について本法の適用を除外する規定を設けるということについても、前述した海商法の国際的統一に参加するという性格からして問題があり、現に外国の立法例においてもほとんどその例がないのである。
次に、原告らは、国内船同士及び国内船と非締約国船との事故につき責任制限制度を設けるとしても、その責任限度額は本法七条の限度額と別に定めるべきであつた等と主張する。
確かに、原告らの主張するように、国内船同士及び国内船と非締約国船との間では責任制限条約による責任限度額を適用せず、別の内容の責任限度額を設けることをしても、条約違反の問題は起こらないということはできよう。しかしながら、本法は、前述したように、商法旧六九〇条の改正をその本質的内容としているのであるから、責任限度額につき国内船同士の事故について同条約と異なる定めをすることになれば、締約国間では責任限度額に拘束されるとする同条約もそれを批准する実益はほとんど失われてしまい、また、国内船と非締約国船との事故について同条約と異なる内容の責任限度額を設けるということも、海商法の国際的統一に参加するという建前からして問題があるのである。
以上要するに、本法において、国内船同士及び国内船と非締約国船との事故につき本法の適用を除外ないしは責任制限条約と異なつた内容の責任限度額の規定を設けなかつたとしても、それは立法府の立法裁量の範囲内であることが明らかというべきである。
2 原告らは、農林水産省は本法が不当であることを認め、漁船保険に関しては本法による責任限度額を上回つて保険金を支払うこととしたとするが、農林水産省において本法が不当であることを認めたという事実はない。
漁船損害補償法による漁船保険の一つである普通保険(普通損害保険と満期保険を含む。)の場合、大きく分けて、被保険者所有の漁船(積荷を含まない。)が損害を受けたことによる損害保険と被保険者の責任により他船の船舶及びその積荷(人損を含まない。)に損害を与えたことによる責任保険(ただし、特約がある場合に限る。)の二つの内容を有しているが、右責任保険金の支払額について再保険者たる政府が保険者である漁船保険組合に対し本法による責任限度額を一部超えて支払うよう指示したのは、他船も漁業保険の対象となつているというごとく例外的な場合に限つている(すなわち、船体損害は他船自身の損害保険部分によつても填補されるので、積荷損害についてのみ右責任保険が現実的意味を有する。)のであつて、他船が右対象となつていないような場合にはその責任保険金の支払額は本法による責任限度額をその上限としているのである。また、そもそも本法は債務額そのものを制限するのではなく責任限度額を制限するにすぎないものであり、その上船主に過失があるようなときは責任制限がなされ得ないのであるから、再保険者たる政府が当該衝突事故に関し漁船所有者に過失があつたか否かを問わず右責任限度額を超えて支払うよう指示したからといつて、それは保険契約の履行に関する運用の問題にすぎず、本法による責任制限自体を不当であるとする意味合いを有するものではないのである。
第三 証拠関係<省略>
理由
一船舶衝突事件の発生
<証拠>によると、請求原因1の事実(ただし、責任割合を除く。)が認められ、この認定に反する証拠はない。
二原告らの地位
1 A事件
<証拠>によると、別紙第一目録A表記載のA事件原告らは、別紙第三目録A表⑩、⑫欄記載のとおりA事件死亡乗組員の相続人であり、その相続分は同⑪欄記載のとおりであることが認められ、この認定に反する証拠はない。
2 B事件
<証拠>によると、別紙第一目録B表記載のB事件原告らのうち、番号1の原告吉田石藏は有漁丸の船主であり、番号2ないし28の原告らは別紙第三目録B表⑩、⑫欄記載のとおりB事件死亡乗組員の相続人であつて、その相続分は同⑪欄記載のとおりであり、番号29、30の原告らは有漁丸の乗組員であつたことが認められ、この認定に反する証拠はない。
三責任制限手続開始の申立て及び和解
<証拠>によると、請求原因3の事実(ただし、A事件の即決和解は、しんえい丸船主の日新汽船はA事件原告らに対し、本法による責任限度額六三九三万七五六二円と、死亡乗組員一人当たりの慰謝料三〇〇万円を支払い、A事件原告らはその余の請求を放棄するというものであり、B事件の示談は、建昌船主の大洋航業はB事件原告らに対し、本法による責任限度額二億九六一六万五二二〇円と、船舶差押費用等諸経費三八三万四七八〇円を支払い、これをもつて一切を解決するというものである。)が認められ、この認定に反する証拠はない(日新汽船が昭和五四年一月一二日松山地方裁判所今治支部に対し、責任制限手続開始の申立てをしたこと、A事件原告らが日新汽船との間で即決和解をしたこと、B事件原告らが昭和五三年六月二三日盛岡地方裁判所遠野支部に対し、本法九五条の船舶先取特権に基づいて建昌の競売申立てをしたところ、同支部により同日競売手続開始決定及び船舶監守保存命令が出されたこと、大洋航業が同年七月二四日盛岡地方裁判所に対し、責任制限手続開始の申立てをしたこと、原告らが大洋航業との間で示談をしたことは、当事者間に争いがない。)。
右事実及び弁論の全趣旨によれば、原告らは日新汽船又は大洋航業に対し右即決和解又は示談の金額を超える損害賠償債権を有していたところ、本法が船主等の責任制限を定めているため、その責任限度額に若干の上積みを行つた金額で即決和解又は示談をせざるを得なかつたことが明らかであり、原告らが右損害賠償債権の一部の弁済しか受けられなかつたことと、本法が船主等の責任制限を定めていることとの間には因果関係が存するものというべきである。
四損失補償請求権の有無
1 そこで、原告らが損害賠償債権の一部の弁済を受けられなかつたことによる損失について、憲法二九条三項の規定に基づき被告に対し補償請求をなし得るか否かについて検討することとする。
2 憲法二九条は、一項で財産権の不可侵を定めるとともに、三項で「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。」と定め、公共のために私有財産を用いるためには、正当な補償を与えなければならないことを明らかにしている。
その一方、憲法二九条二項は「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。」と定め、また、憲法一二条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、……これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」と定めており、これらの規定に照らせば、財産権も決して無制約、無限定なものではあり得ず、公共の福祉に適合するよう法律でその内容を定められる権利であり、公共の福祉のためその行使について制約を受ける権利であることが明らかである。すなわち、財産権には社会的存在としての一定の制約が内在しており、社会共同生活の安全・秩序・調和に反してまでその絶対性を主張することは本来許されないのである。そして、財産権の権利主体は、財産権に加えられた法的規制により不利益を受けることがあつても、それが当該財産権に一般的に内在する社会的制約に基づくものである場合には、社会の構成員としてこれを受忍すべき義務を負い、補償を求めることはできないのである。
しかし、公共のためにする財産権の制限が、右受忍の限度を超え、特定人又は特定範囲の者に対し特別の犠牲を強いるものであれば、これをひとり当該特定人又は特定範囲の者の犠牲として放置すべきではなく、その財産上の損失については、これを社会全体の負担に配分し転嫁することが公平平等の原則から要請される。憲法二九条三項はこのことを規定したものであり、公共のためにする財産権の制限が社会生活上一般に受忍すべきものとされる限度を超え、特定人又は特定範囲の者に対し特別の犠牲を強いるものである場合には、同条項によりこれに対し補償することを要するものというべきである。
3 したがつて、憲法二九条三項の「公共のために用ひる」ことの意義について、被告主張のように、特定の公益事業のためにする公用収用又は公用制限に限定して解すべき理由はなく、広く社会全般のために私有財産を取得し、あるいは制限することを指すものと解すべきである。すなわち、公共の用とは公共の利益を含む意味であつて、公益事業のため財産を用いる場合だけでなく、目的が公共の利益のためであれば、それ以外の財産権の制限も損失補償の対象となり得るのである。被告は、本法は単に私人と私人との間の権利義務関係である損害賠償債権の責任の範囲について特別の定めをしたものにすぎず、憲法二九条三項の補償が問題となる財産権の強制的収用又は制限とはおよそ無縁であると主張するが、私人間の権利義務の調整であつても、調整の目的が公共の利益の実現にあれば、当該権利を公共のため用いたというに妨げはない。
4 次に、被告は、本法の存在によつて原告らが何らかの損失を被つても、その損失は原告らにおいて社会生活上一般に受忍すべきものであつて、補償の限りではない旨主張する。
本法は、航海に関して生じた損害賠償債権について、船主等の責任を制限するものであり、その限りにおいて右損害賠償債権の行使を制限するものであるが、右制限は、公共の安全ないし秩序の保持とか、社会的共同生活の安全ないし調和の確保といつた消極的目的に基づくものではない。すなわち、右損害賠償債権の完全な行使が公共の安全等を脅かしたり、他人の正当な権利利益を妨害するということはできず、右制限は、右損害賠償債権の本来の社会的効用とは無関係に、海上企業を保護し、もつて国民経済生活の維持発展を期するという積極的公益目的のため課せられたものであることが明らかである。したがつて、右制限を右損害賠償債権に内在する社会的制約として、当該債権者において受忍すべきものというのは当たらない。
5 しかしながら、憲法二九条三項により補償を要するのは、公権力の行使により既存の権利に制限を課した場合に限られる。
仮に、本法が本法施行前に発生していた損害賠償債権の行使を制限するというのであれば、その制限に伴う損失について補償を論ずる余地があろう。しかし、原告らが本訴で主張する損失は、本法の施行日である昭和五一年九月一日から後の昭和五三年一二月二三日(A事件)又は同年六月二一日(B事件)に発生した損害賠償債権に係るものである。本法施行後は、航海に関して生ずる損害賠償債権は、本法による制限を当然に伴つて発生するのであり、原告らの損害賠償債権も、本法による制限を伴う権利として発生したものであり、原告らは、本法によつて制限されたところの損害賠償債権のみを取得したにすぎず、本法が原告らの既得の損害賠償債権を侵害したという関係にはない。したがつて、本法が原告らの損害賠償債権を公共のため用いたということはできず、原告らの本訴請求はその前提を欠き、失当といわざるを得ないのである。
国は、憲法二九条二項の規定に基づき、将来発生する権利についても、既存の財産権についても、その内容が公共の福祉に適合するよう法律をもつて規制することができるのであつて、将来発生する権利についてその内容を一般的に定めたとしても、特定人又は特定範囲の者の財産権を侵害することにはならず、損失補償を論ずる余地はないのである。もつとも、原告らは、損害賠償債権は既存の船舶等の財産、更には生命身体に代わるべきものであるから、その損害賠償債権の行使を制限することは、既存の財産権を侵害するものであると主張するかも知れない。しかし、損害賠償債権自体は将来の発生にかかり、しかもその発生自体不確実であるばかりでなく、そもそも損害賠償債権は右財産権の有する効力の一つというよりも、それとは別個に不法行為の効果として発生する権利であるから、損害賠償債権に制約を加えたからといつて、右既存の財産権を侵害したものとはいえない。そして、仮に、本法に既存の財産権を侵害する面があつたとしても、本法は航海に関して生じる損害賠償債権一般を規制するものであつて、特定人又は特定範囲の者に犠牲を強いるものではないから、その点において損失補償の対象とはなり得ない。原告ら主張のように、制限を受けるのが損害賠償債権一般でなく、航海に関して生じた損害賠償債権であり、また、制限を受けるのは事実上小型船舶の船主又は乗組員であるとしても、この程度をもつてしては損失補償の対象たるべき特定範囲の者と評することができない。ちなみに、小型船舶の船主又は乗組員といえども、債務者となり、本法による責任制限の利益を得る可能性も有しているのである。
6 なお、原告らは、本法の不合理性を種々主張するが、本法が原告らの既得の財産権を侵害するものでない以上、仮に本法に不合理な面があつたとしても、そのことにより損失補償請求が発生するものではない。
五結語
以上のとおりであつて、原告らの本訴請求は爾余の点について判断するまでもなく理由がないことに帰するから、いずれもこれを棄却することとし、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条、九三条一項本文の規定を適用して、主文のとおり判決する。
(泉徳治 大藤敏 菅野博之)
第一〜第五目録<省略>